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【東園基昭の「一粒万倍日記」2026.8.18】
《タイトル》 「空華(くうげ)」 《サイズ》M3号(273 × 160mm) 《作品内容》「0」のシルエットに、日、瑞雲、波、背景に瑞雲紋様。空に咲く花を意味し、転じて実在しないものをあるかのように思い込んでとらわれる仏教用語。また実際に目眩などで視界の空中に浮かぶ花が舞うようにチカチカと見える「幻影」のこと。 第三十六回目『0から世界は満ちてゆく』 0(ゼロ)とは、不思議な数字である。古代インドで発明されたこの数字は「何もない」という状態そのものを数として扱う、人類史上稀有な発想だった。位取りの基準として、0は10や100を成立させる縁の下の力持ちであり、足しても数を変えず、掛ければすべてを0に還すという特別な性質を持つ。偶数でありながら正でも負でもない、どこにも属さない数、それが0である。 古代西洋では、この0はなかなか受け入れられなかった。アリストテレスの自然論は「自然は真空を嫌う」とし、宇宙を有限な天球と定めた。そこに「無」や「無限」の居場所はなかったのだ。一方、東洋の思想はまるで違う。仏教が説く「空(くう)」とは、何もないことではなく、すべてが縁によって成り立つ、固定されざる世界のありのままの姿である。「無」は執着を手放した澄んだ心を意味することもあれば、「虚」は空虚感という、心にぽっかり空いた穴を指すこともある。同じ「からっぽ」でも、その手触りはこれほど違う。 日本神話の天地開闢もまた、0から始まる物語だ。まだ天と地の分かれぬ混沌のなか、水に浮く脂のように、もやのようにすべてが漂っていた。その茫漠とした「無」から、軽く清らかなものが立ち上って高天原となり、重く濁ったものが沈んで大地となる。神々もまた、その空白のただ中に現れた。世界とは、満ちたところからではなく、何もないところから立ち上がるものなのだ。 私たちの暮らす日本には、この「空白」を積極的に味わう美意識がある。それが「間(ま)」である。間とは、単なる空間の欠如ではない。文章の行間、絵画の余白、立体物をめぐる空気、そこにこそ作者の本当の思考が宿ると私は思う。「金鶏の間」や「寿の間」のように、間は歴史の節目や祝いの場を指す言葉としても生きてきた。物事の終わりや空白に宿る余韻を通して、深い情緒が生まれる。読み手や鑑賞者の心がその間と重なったとき、そこには言葉にならない豊かさが立ち上がる。 0とは、失われた何かではない。それは、これから何かが満ちてゆくための、準備の場所である。真っ白な余白があるからこそ筆は走り、何もない間があるからこそ物語は大団円を迎える。 何もない今日この一瞬もまた、明日への豊かな「間」なのだと思えば、この空白はきっと、幸福の始まりに感じる。東園基昭拝
【東園基昭の「一粒万倍日記」2026.8.18】
《タイトル》 「空華(くうげ)」 《サイズ》M3号(273 × 160mm) 《作品内容》「0」のシルエットに、日、瑞雲、波、背景に瑞雲紋様。空に咲く花を意味し、転じて実在しないものをあるかのように思い込んでとらわれる仏教用語。また実際に目眩などで視界の空中に浮かぶ花が舞うようにチカチカと見える「幻影」のこと。 第三十六回目『0から世界は満ちてゆく』 0(ゼロ)とは、不思議な数字である。古代インドで発明されたこの数字は「何もない」という状態そのものを数として扱う、人類史上稀有な発想だった。位取りの基準として、0は10や100を成立させる縁の下の力持ちであり、足しても数を変えず、掛ければすべてを0に還すという特別な性質を持つ。偶数でありながら正でも負でもない、どこにも属さない数、それが0である。 古代西洋では、この0はなかなか受け入れられなかった。アリストテレスの自然論は「自然は真空を嫌う」とし、宇宙を有限な天球と定めた。そこに「無」や「無限」の居場所はなかったのだ。一方、東洋の思想はまるで違う。仏教が説く「空(くう)」とは、何もないことではなく、すべてが縁によって成り立つ、固定されざる世界のありのままの姿である。「無」は執着を手放した澄んだ心を意味することもあれば、「虚」は空虚感という、心にぽっかり空いた穴を指すこともある。同じ「からっぽ」でも、その手触りはこれほど違う。 日本神話の天地開闢もまた、0から始まる物語だ。まだ天と地の分かれぬ混沌のなか、水に浮く脂のように、もやのようにすべてが漂っていた。その茫漠とした「無」から、軽く清らかなものが立ち上って高天原となり、重く濁ったものが沈んで大地となる。神々もまた、その空白のただ中に現れた。世界とは、満ちたところからではなく、何もないところから立ち上がるものなのだ。 私たちの暮らす日本には、この「空白」を積極的に味わう美意識がある。それが「間(ま)」である。間とは、単なる空間の欠如ではない。文章の行間、絵画の余白、立体物をめぐる空気、そこにこそ作者の本当の思考が宿ると私は思う。「金鶏の間」や「寿の間」のように、間は歴史の節目や祝いの場を指す言葉としても生きてきた。物事の終わりや空白に宿る余韻を通して、深い情緒が生まれる。読み手や鑑賞者の心がその間と重なったとき、そこには言葉にならない豊かさが立ち上がる。 0とは、失われた何かではない。それは、これから何かが満ちてゆくための、準備の場所である。真っ白な余白があるからこそ筆は走り、何もない間があるからこそ物語は大団円を迎える。 何もない今日この一瞬もまた、明日への豊かな「間」なのだと思えば、この空白はきっと、幸福の始まりに感じる。東園基昭拝