
《タイトル》
「井筒(いづつ)」
《サイズ》
M3号(273 × 160 mm)
《作品内容》
バナナのシルエットに菖蒲、八つ橋、流水、子宝雲、業平菱紋様。
タイトルは能楽の演目「井筒」より。
第二十八回目
『勝負の変奏』
なぜ、人は勝ち負けに執着するのか。
その問いに答えるには、生命そのものの構造を見つめ直す必要がある。生き物には本質的な優位性の追求が刻まれている。足の速い者が獲物を得、知恵ある者が危険を躱す。自然淘汰とはすなわち、勝負の連続である。人間社会もその延長線上にある。地位、財、名誉、それらを巡る競争は、大自然の摂理が文明という衣を纏っただけに過ぎない。
しかし、人が勝負に固執するのは生存本能だけではあるまい。個では決して届かない高みに、仲間と共に挑む喜びがそこにある。山を越えるより山を越えようとする過程に、人は生きている実感を見出す。力を合わせ、ひとつの目標へ向かう瞬間の高揚感それは勝敗の結果以上に深く、魂に刻まれる。勝負とは、つまるところ「共に在ること」の最も純粋な形のひとつなのかもしれない。
ところで、勝負への向き合い方は、人の齢と共に静かに変貌を遂げる。
青年期の勝負は、炎のように燃える。切磋琢磨という言葉がこれほど似合う時期はない。ライバルの背を追い、自らの限界を試し、敗北の苦さを糧に再び立ち上がる。その繰り返しが、人格と技量を鍛え上げる。若者にとって勝負とは、自己形成の鎚であり、世界への宣言でもある。
やがて時が流れ、晩年の領域へ差し掛かると、勝負の意味は別の相貌を帯びてくる。前に出ることより、後ろから支えることへ。自らが勝ることより、次の世代が勝てるよう場を整えることへ。後方支援とは決して敗退ではない。長年の勝負を通じて磨き上げた眼識と胆力を、静かに注ぎ込む営みである。心のこもった社会貢献とはその最たるものだろう。愛すべき人々のために、自分が一生かけて鍛えてきたものを差し出す。それは、勝負の成熟した姿である。
振り返れば、若い頃の「他者との勝負」は、いつしか「自分自身との勝負」へと深化している。昨日の自分より少しでも誠実であれるか。積み重ねてきた経験を、おごらず惜しまず手渡せるか。その問いに向き合うことが、晩年の静かな闘いとなる。
様々な人や事柄と交わり、勝ち負けの波に揉まれながら生きてきた背中が、後世への無言の語りかけとなる。言葉より雄弁に、その生き様が誰かの羅針盤になる日が来る。
勝負は終わらない。ただ、その戦場が変わるだけである。
東園基昭 拝