【東園基昭の「一粒万倍日記」2026.4.23.】

【東園基昭の「一粒万倍日記」2026.4.23.】




《タイトル》
 「晨風(しんぷう)」

《サイズ》
P6号(410 × 273mm)
 
《作品内容》
卓球のラケットのシルエットに、鶴と松竹梅、胡蝶に幕紋様。ボールには亀甲花菱紋。
タイトルの意味は、朝早くに吹く風。

第二十ニ回目
『Sometimes I Rhyme Slow』

 卓球は19世紀末のイギリスで、上流階級の貴族が雨の日に室内でテニスを楽しもうと、テーブル上でコルクをボール代わりに葉巻の箱の蓋をラケットとして遊んだ「ピンポン(Ping Pong)」が起源である。
 日本では1902年頃に伝来し、長く楽しまれてきた様子が窺えて楽しい。
 ボールがラケットに当たる「ピン」、台に落ちる「ポン」という音が「ピンポン」の由来で、名前からリズムを感じる。
 私の能楽の師匠はテニスが大変得意であったが、学生の頃にコートから聞こえてくる打球音が心地よく、見学していたところ先輩から「やってみる?」と声をかけられ、嬉しくなって始めたのが切っ掛けであったそうで、後にリズム感や腰を切る動きが能楽における所作にもつながったと話していた。
 所作は、その人が漏れ出る瞬間である。
 また所作の根元にある品格というものは、持とうとして持てるものではない。
 姿勢、視線の置きどころ、物を手渡すときの指先の角度、そういった細部に、その人の時間の積み重ねが、意図せず滲み出る。取り繕える部分など、ほんのわずかしかない。むしろ取り繕おうとする動作そのものが、品のなさとして読まれてしまうことさえある。
 おもしろいのは、同じ「品がある」という印象でも、人によってまるで質感が違うことだ。
 静かに部屋の隅に立っているだけで場を整えてしまう人がいる。一方で、よく笑い、よく動き、騒がしいくらいなのに、不思議と下品にならない人もいる。
 前者の品は「余白」から生まれ、後者の品は「体温」から生まれている。根っこにあるものは同じかもしれないのに、性格という器を通ると、こんなにも違う空気になる。
 所作の美しさは、抑制だけを意味しない。むしろ、その人の自然な性格が、行動のひとつひとつにきちんと宿っているとき、そこに品が生まれるのではないかと思う。
 無理に押さえ込まれた動作は、どこかぎこちなく、見る者をかえって落ち着かせない。型を学ぶことには意味がある。ただ、型は骨格であって、肉づけはその人自身がするしかない。だから同じ作法を身につけた人間が10人いても、十通りの所作が生まれる。
 思えば、接客の場でもそれをよく感じる。同じ「いらっしゃいませ」という言葉でも、発する人によって空気がまったく変わる。
 丁寧さの奥に温かみがある人、静謐(せいひつ=静かで落ち着いており、穏やかで安らかな様子)さがある人、ある種の緊張感がある人。言葉は同じでも、所作が違えば、客が受け取るものは違う。品格とは結局、言葉の外側にあるものなのだ。
 人を観察することが好きな人間にとって、所作はその人を読む最初の言語だ。言葉より先に、動きが語る。そしてその語り口は、判で押したように同じにはならなく、性格の数だけ、品格の形がある。
 おっとりした人の品はゆっくりと場に溶け込み、鋭い人の品は空気を静かに引き締める。どちらが上ということではなく、ただ、違う。
 その違いが、卓球のラリーを見ているように人を見ることを飽きさせない理由のひとつだと思う。


東園基昭 拝


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